El día de la ira と題する写真企画雑感

自分は数年前からソーシャルメディアで募集したモデルのポートレート撮影を続けている。すこし前からは「El día de la ira」と題して募集から撮影までも含めた写真企画として構成し始めたが、いまのところまとめて発表する計画も媒体もない。

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撮影をはじめた2010年代なかばの時点で、すでに「ソーシャルメディアで募集したモデルのポートレート」は複雑で厄介な文脈をはらんでいた。
なぜ、それが複雑で厄介なのかは、大きくわけてモデルたちを取り巻くポートレート撮影や写真界隈の文脈と、その外側、つまり社会の主流を構成する文化や言論人界隈のそれというふたつの側面が、相互にゆるく関連していたためだ。

まず、ポートレート撮影や写真界隈の文脈だが、ソーシャルメディア経由で募集に応じるモデルのほとんどすべてはプロダクションに所属しないフリーランスで、さらにその多くは「被写体」と自称する、あるいは他称される人々だった。
彼らが被写体と自称し、または他称される理由のひとつは、プロダクションに所属する専業プロ、あるいはセミプロとの差別化、それも下位存在としてのそれだった。
この、強い表現を用いるなら差別的ですらある「被写体」という言葉は、少なからず撮影するカメラマンや作品を掲載する媒体側の意識を反映したところがあり、すこし前まで職業カメラマンや大手媒体から使い捨て扱いされ、ひどい場合は報酬未払いやセクハラなどの問題もあった(ただし、報酬未払いやセクハラという問題は被写体のみに限らず、プロダクション所属のモデルもしばしば直面している)。
ただ、彼らが「ファッションあるいはグラビアモデルとして体系的な教育、訓練を受けていない」としても、レイヤーや地下アイドルを兼ねていることが非常に多く、また活動の一環として音楽やダンス、演劇、歌唱、発声などのトレーニングを積んでいることは少なくない。さらに水着やコスプレもふくめ撮影時の衣装は自弁が基本で、独自にポージングなどを研究しているモデルも非常に多く、プロダクション所属のセミプロはもちろん、専業プロとも技術面の差はそこまで大きいとは言えないところもある

また、モデル自身によるネットでの個人発信が社会的な力を持つようになり、特に印刷媒体を始めとする旧来型の媒体が相対的に影響力を弱めていったこと、さらにデジカメと現像編集アプリの普及でアマチュアカメラマンの水準が上昇したことなどから、ソーシャルメディア経由で募集に応じるモデルの水準や意識が向上し、被写体という言葉の持つ否定的な意味は徐々に薄れていったと思える。
加えて、ソーシャルメディア経由で人気を集めたモデルが印刷媒体やカメラショーなどで活躍するようになり、プロダクションも撮影イベントなどではソーシャルメディアでアマチュアカメラマンを募集するなど、被写体とモデルの境界が曖昧になり、言葉そのものの意味も変化していった。

次に、社会の主流を構成する文化や言論人界隈の文脈だが、これはポートレート撮影や写真界隈における被写体の位置づけが向上するに従って発生したように考えている。それは、ざっくり言ってしまうと「グラビアやコスプレは女性を性的な存在として貶め、社会的な地位を低下させる表現」として攻撃する文脈である。
いわゆる被写体の最大多数は女性だったが、トランスも含めた異性装者も少なくはなく、それは男性モデルよりも多いのではないかとさえ思えるほどだった。とはいえ、異性装者のなかでも男装女性やトランス男性(いわゆるFtM)は限られていたため、自分の作品もふくめ大半が「女性の姿を撮影したもの」となる。
そして、作品で表現する内容は「既存のジェンダー観を追認、強化するもの」として、強い批判の的となった。
また、ジェンダー的な観点からの批判と並行して、先に触れたような
職業カメラマンや大手媒体から使い捨て扱いや、報酬未払い、セクハラなどの問題が少なくないことの背景に、当事者の女性差別的な意識があるとの指摘もなされ、表現とジャンルの両面が否定的に受け止められたのである。
ややこしいことに、それらとほぼ同時期にフェミニストによるトランス女性や異性装者への攻撃も始まり、モデルにはトランスや異性装者が少なからぬふくまれていたため、ポートレート撮影をめぐる屈折をより複雑に、わかりにくくしているのであろうとも思う。

ただ、ソーシャルメディア経由で募集に応じるモデルのほとんどすべては、いわゆる専業モデルがまま主張する、ロックミュージシャンめいたアティテュードとは距離を保っている、あるいは方向性が異なっていて、社会へ直截かつ無遠慮な意見表明することを煙たがっているようなフシすらある。
また、おうおうにして彼らの自尊心であり自己主張の源はアニメやマンガ、ゲームだったり、コミック雑誌も含めた雑誌のグラビア、アイドルタレントだが、同時にそれらが社会からさほど評価されていないこと、特にファッションより格下扱いされるという現実も、はっきりと認識している。
加えて、アニメやマンガ、ゲーム、雑誌のグラビア、アイドルタレントなどは、しばしば社会の主流や権威ある学者から軽んじられ、ひどく攻撃されることすら少なくはない。そのため、ジェンダー的な観点からの批判によって写真展が中止に追い込まれたり、コミック雑誌のグラビアが性差別的と攻撃された際にも、仕方ないこととして受け流すような態度が見受けられた。
もちろん、そのような攻撃はファンでもある彼らを傷つけ、また屈折の要因でもあるが、それを飲み込んでしまう埋没志向が存在している。
これはカメラマンや媒体からの使い捨て、セクハラや報酬未払いなどの問題指摘に対する反応もそうで、少なくとも問題を声高に指摘した活動家や学者への直接的な言及や、まして対話といったものはごく限られていた。むしろ、そういった活動家や学者を胡散臭く感じて遠ざけ、当事者同士の互助や自治を強化する傾向がある。

ともあれ、このような屈折を抱えたモデルを撮影することは、それ自体がひとつの文脈を持ってしまうし、それは避けようがないことと思う。

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自分がソーシャルメディアで募集したモデルのポートレート撮影をはじめた時点では、正直なところ「それがはらむ複雑で厄介な文脈」を理解していなかった。
ただ、その以前にギャラリーで展示する作家の在廊中をアポ無しで作品とともに撮影し、組写真として展示したことはある。その際に「モデルの選択と撮影という行為そのものが文脈を持つ」ことは十分に理解していたつもりだし、またそれとは別に被写体という言葉や存在がはらむ文脈も漠然と感じていた。だが、募集に応じるモデルの大半が「被写体を自称する人々」なのはいささか予想外で、それが
ソーシャルメディアでモデルを募集することそのものとあいまった複雑で厄介な文脈が成立しているとは、まったく予想していなかった。

ともあれ、その文脈を把握したときにはすでにある程度の撮影を重ねており、また被写体という言葉や存在が持つ文脈についても、それはそれで興味深く感じるものがあった。そのため、ちょうどそのころ大流行していたHUMANS OF NEW YORKを模してインタビューを交えたポートレート撮影を始めたが、これがギャラリーで在廊中の作家とはまったく違って、自分の狙いはほとんど達成できなかった。
その理由はいくつかあると思うが、いまにして思うと自己の身体で表現するモデルと、作品で表現する作家との違いに対する理解が不十分だったのだろう。モデル経験を積んでいる人々や、アイドルや役者として活動するモデルはもちろん、そういった活動をしていない人々でも、被写体を自称して撮影に応募するからには、自己を表現したいという欲求が強くある。
これが作家であれば作品を媒介とした「語り」を、またHUMANS OF NEW YORKのような市井の人々であれば当人の生き様を媒介として「語り」を引き出せるだろう。だが、自らの身体や表情による「語り」を写真に表現しようとする人々に対しては、まったく異なる方法論が求められたと言えよう。

結局、インタビューを織り交ぜたポートレート撮影は早々に放棄し、それからしばらくは模索しながら応募モデルを撮影していた。やがて、ジェンダー論的な観点からの「グラビアやコスプレは女性を性的な存在として貶め、社会的な地位を低下させる表現」という攻撃が顕在化し、当事者から批判された体験を耳にするようにもなった。
個人的には、モデルやカメラマンを始めとする当事者の内心を作品表現と同一視するかのような浅い感想を、作品鑑賞や当事者への取材すら怠ったまま、学問や社会活動といった権威を振りかざして押し付けるジェンダー方面には、少なからぬ憤りすら感じる。だが、多くの当事者は沈黙を選び、埋没したまま嵐がすぎる日を信じ我慢している。
とはいえ、
攻撃されたグラビアやコスプレ的な方法論、あるいは当事者たちの世界を自分自身が是とする、あるいは好意を抱くわけではなく、むしろスーザン・ソンタグが指摘した撮影行為による被写体の獲得や攻撃に近い侵襲性といった側面に無頓着すぎるとさえ思わないわけではなく、いささか冷ややかに見ていたところすらある。
ただ、そういった否定的な感情があったにせよ、そもそもグラビアやコスプレにはあまり興味がないというのも正直なところで、多くはそれらを愛好するモデルたちを撮影しながら、同時に非常に屈折した思いも抱いていた。
いま振り返ると、募集をやめる潮時だったのかもしれないが、その時の自分は「ありがちな笑顔写真を排すれば、多少なりとも差別化ができるのではないか?」と、かなり安直にタイトルを決め、告知を改めたのだった。

手前勝手と言われればそのとおりなのだが、ぐだぐだな自分自身へのいらだちや思いもこめつつ、スペイン語で「怒りの日」を意味するEl día de la iraと企画を名付けていまに至る。
しかし、まったく予想もしない成り行きで伝染病の世界的流行に見舞われ、現段階では屋外の撮影すらままならない。もちろん、感染予防に十分な対策を講じても、この状況では「撮影することそのものがひとつの主張となり、文脈を帯びる」のだ。
伝染病が流行する世界でEl día de la iraと題するポートレート撮影企画をすすめることの意味、その文脈を引き受けつつ、自分はなおも続けようと思っている。

スペイン語でEl día de la iraはそこそこ使われる言葉で、楽曲や作品、映画のタイトルにもいくつか使われている。それらの中で自分が好きで、刺激を受けたのは以下のふたつだ。
それらを紹介し、結語に変えたい。

Ismael Serrano – El Dia de la Ira (Audio) @YouTube
スペインのミュージシャン「イスマエル・セラノ」の歌。
アラブの春めいた、大衆の街頭行動による官僚的な統治の打破を歌った詞だが、現在の状況ではいささか皮肉めいてしまう。

怒りの荒野 (1967) 原題:I GIORNI DELL’IRA/DAYS OF WRATH 予告編
マカロニ・ウエスタンの名作で、ジュリアーノ・ジェンマとリー・バン・クリーフというジャンルの大スターが共演している。原題はイタリア語の「怒りの日」で、スペイン語ではEl día de la iraと直訳された。ジェンマ演じる主人公の成長と復讐が、作品の中心となっている。

作品評論コラム
『怒りの荒野』
ヤサ男、ジュリアーノ・ジェンマの大爆発 – 花の絵


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