オンライン撮影会の興味深い可能性

新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)の流行を阻止するため、さまざまな娯楽イベントが開催を自粛しましたが、モデル撮影会もそのひとつでした。特に、国が4月7日に「新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言」を発出した後は、小規模少人数の撮影会も中止されてしまい、少なくとも東京ではまったく開催されない状況となっていました。ただ、モデルさんや撮影会主催者も手をこまねいていただけではなく、だいたい4月のなかばころには「オンライン撮影会」という、新しい試みが行われています。
オンライン撮影会とは、ライブ配信アプリや動画チャット、テレビ会議システムを用いてモデルの姿を参加者のスマホやPCへ動画配信し、そのスクリーンショットを撮るという遠隔撮影会です。
内容などについては、以下のインタビュー記事で具体的に紹介されています。

鈴木ふみ奈、自宅で撮影会開催し約300人が参加 「こんな時だからこそ」
人気グラビアアイドルの鈴木ふみ奈が、外出自粛が叫ばれる中、PCやスマホを通して水着撮影ができる「オンライン撮影会」を自主開催し、全国のファンたちから好評を得ている。

しかし、非接触型ポルノやアダルト動画チャットなどのサービスに詳しい人は、もしかしたら「べつに新しい試みでもなんでもない、アダルトには以前からそういうサービスがあった」よう思うかもしれません。それはたしかにそうで、個人的にも顕著な相違点は認められないように思います。もちろん、細々とした相違点はたくさんありますし、アダルトサービスだとむしろスクショは微妙な扱いだったりもしたのですが、大枠の仕組みそのものは変わらないと考えます。

むしろ、オンライン撮影会が新しい試みなのかどうかよりも、結局はスクショってところに問題というか、がっかりする人も少なくはないかもしれません。ただし、以前からモデル撮影会には「スマホ参加者」の扱いという問題がありまして、もしオンライン撮影会でそれが解決するなら、少なくとも主催者やモデルさんの側には大きなメリットが存在します。
スマホ参加者の問題とは、カメラを持たずにスマホで撮影したがる人々のマナーが相対的によろしくないことです。もちろん、スマホはカメラよりはるかに普及しているので、スマホでの参加を希望する人は少なくないのですけど、いくつかの撮影会ではスマホ参加を断っていますし、なかには小型のアクションカムやコンデジもだめなところがありました。遠まわしに表現していますが、腕時計や筆記用具に偽装したスパイカメラは論外で、カメラ機能を強化した高級スマホは多くの場合で参加できるといったあたりから、いろいろ察していただけると思います。

話を戻しますが、スマホ参加者の多くはスクショでも満足するであろうし、主催者やモデルさんとしても遠隔ならまず問題が発生しないであろうことから、オンライン撮影会なら両者の利害が一致する可能性が高いのです。

となると、オンライン撮影会はあくまでもビギナーやライトユーザの入口に過ぎないということになりそうですし、たとえそうなったとしても十分に意味はあると思いますが、デジ1画質での撮影も決して不可能ではありません。
そのヒントが、以下に紹介するミラーレスカメラをWEBカメラにするアプリです。

キヤノン機をWebカメラ化する「EOS Webcam Utility Beta」導入レポート

EOS Webcam Utility Betaで高品質なWeb会議システムをつくってみよう

もし、このアプリに静止画撮影機能が実装されれば、文字通りデジ1画質の撮影ができますし、データもクラウドへアップすればリアルタイムシェアできます。もし、オリジナル撮影データを参加者が独占的に保持したければ、メディアの送付がひとつの答えとなりましょう。なので、個人的にはかなり近い将来にデジ1画質のオンライン撮影会が開かれると思います。

また、現状でも液晶のライブビュー画面をスマホで撮影しつつ、モデルさんがリモコンやセルフタイマーでシャッタを切れば、デジ1画質の遠隔撮影は可能ですし、ピントグラスをスマホで撮影すれば銀塩カメラでも遠隔撮影が可能となるのです。
こんな感じで……。

個人的には、ピングラ越しならスクショでも作品となりえる用に思いますし、遠隔撮影が行為としての芸術性を帯びるのではないかとさえ考えるのですが、いかがなものでしょう?

だれかやってみません?
ピングラ越しのオンライン撮影会w

El día de la ira と題する写真企画雑感

自分は数年前からソーシャルメディアで募集したモデルのポートレート撮影を続けている。すこし前からは「El día de la ira」と題して募集から撮影までも含めた写真企画として構成し始めたが、いまのところまとめて発表する計画も媒体もない。

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撮影をはじめた2010年代なかばの時点で、すでに「ソーシャルメディアで募集したモデルのポートレート」は複雑で厄介な文脈をはらんでいた。
なぜ、それが複雑で厄介なのかは、大きくわけてモデルたちを取り巻くポートレート撮影や写真界隈の文脈と、その外側、つまり社会の主流を構成する文化や言論人界隈のそれというふたつの側面が、相互にゆるく関連していたためだ。

まず、ポートレート撮影や写真界隈の文脈だが、ソーシャルメディア経由で募集に応じるモデルのほとんどすべてはプロダクションに所属しないフリーランスで、さらにその多くは「被写体」と自称する、あるいは他称される人々だった。
彼らが被写体と自称し、または他称される理由のひとつは、プロダクションに所属する専業プロ、あるいはセミプロとの差別化、それも下位存在としてのそれだった。
この、強い表現を用いるなら差別的ですらある「被写体」という言葉は、少なからず撮影するカメラマンや作品を掲載する媒体側の意識を反映したところがあり、すこし前まで職業カメラマンや大手媒体から使い捨て扱いされ、ひどい場合は報酬未払いやセクハラなどの問題もあった(ただし、報酬未払いやセクハラという問題は被写体のみに限らず、プロダクション所属のモデルもしばしば直面している)。
ただ、彼らが「ファッションあるいはグラビアモデルとして体系的な教育、訓練を受けていない」としても、レイヤーや地下アイドルを兼ねていることが非常に多く、また活動の一環として音楽やダンス、演劇、歌唱、発声などのトレーニングを積んでいることは少なくない。さらに水着やコスプレもふくめ撮影時の衣装は自弁が基本で、独自にポージングなどを研究しているモデルも非常に多く、プロダクション所属のセミプロはもちろん、専業プロとも技術面の差はそこまで大きいとは言えないところもある

また、モデル自身によるネットでの個人発信が社会的な力を持つようになり、特に印刷媒体を始めとする旧来型の媒体が相対的に影響力を弱めていったこと、さらにデジカメと現像編集アプリの普及でアマチュアカメラマンの水準が上昇したことなどから、ソーシャルメディア経由で募集に応じるモデルの水準や意識が向上し、被写体という言葉の持つ否定的な意味は徐々に薄れていったと思える。
加えて、ソーシャルメディア経由で人気を集めたモデルが印刷媒体やカメラショーなどで活躍するようになり、プロダクションも撮影イベントなどではソーシャルメディアでアマチュアカメラマンを募集するなど、被写体とモデルの境界が曖昧になり、言葉そのものの意味も変化していった。

次に、社会の主流を構成する文化や言論人界隈の文脈だが、これはポートレート撮影や写真界隈における被写体の位置づけが向上するに従って発生したように考えている。それは、ざっくり言ってしまうと「グラビアやコスプレは女性を性的な存在として貶め、社会的な地位を低下させる表現」として攻撃する文脈である。
いわゆる被写体の最大多数は女性だったが、トランスも含めた異性装者も少なくはなく、それは男性モデルよりも多いのではないかとさえ思えるほどだった。とはいえ、異性装者のなかでも男装女性やトランス男性(いわゆるFtM)は限られていたため、自分の作品もふくめ大半が「女性の姿を撮影したもの」となる。
そして、作品で表現する内容は「既存のジェンダー観を追認、強化するもの」として、強い批判の的となった。
また、ジェンダー的な観点からの批判と並行して、先に触れたような
職業カメラマンや大手媒体から使い捨て扱いや、報酬未払い、セクハラなどの問題が少なくないことの背景に、当事者の女性差別的な意識があるとの指摘もなされ、表現とジャンルの両面が否定的に受け止められたのである。
ややこしいことに、それらとほぼ同時期にフェミニストによるトランス女性や異性装者への攻撃も始まり、モデルにはトランスや異性装者が少なからぬふくまれていたため、ポートレート撮影をめぐる屈折をより複雑に、わかりにくくしているのであろうとも思う。

ただ、ソーシャルメディア経由で募集に応じるモデルのほとんどすべては、いわゆる専業モデルがまま主張する、ロックミュージシャンめいたアティテュードとは距離を保っている、あるいは方向性が異なっていて、社会へ直截かつ無遠慮な意見表明することを煙たがっているようなフシすらある。
また、おうおうにして彼らの自尊心であり自己主張の源はアニメやマンガ、ゲームだったり、コミック雑誌も含めた雑誌のグラビア、アイドルタレントだが、同時にそれらが社会からさほど評価されていないこと、特にファッションより格下扱いされるという現実も、はっきりと認識している。
加えて、アニメやマンガ、ゲーム、雑誌のグラビア、アイドルタレントなどは、しばしば社会の主流や権威ある学者から軽んじられ、ひどく攻撃されることすら少なくはない。そのため、ジェンダー的な観点からの批判によって写真展が中止に追い込まれたり、コミック雑誌のグラビアが性差別的と攻撃された際にも、仕方ないこととして受け流すような態度が見受けられた。
もちろん、そのような攻撃はファンでもある彼らを傷つけ、また屈折の要因でもあるが、それを飲み込んでしまう埋没志向が存在している。
これはカメラマンや媒体からの使い捨て、セクハラや報酬未払いなどの問題指摘に対する反応もそうで、少なくとも問題を声高に指摘した活動家や学者への直接的な言及や、まして対話といったものはごく限られていた。むしろ、そういった活動家や学者を胡散臭く感じて遠ざけ、当事者同士の互助や自治を強化する傾向がある。

ともあれ、このような屈折を抱えたモデルを撮影することは、それ自体がひとつの文脈を持ってしまうし、それは避けようがないことと思う。

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自分がソーシャルメディアで募集したモデルのポートレート撮影をはじめた時点では、正直なところ「それがはらむ複雑で厄介な文脈」を理解していなかった。
ただ、その以前にギャラリーで展示する作家の在廊中をアポ無しで作品とともに撮影し、組写真として展示したことはある。その際に「モデルの選択と撮影という行為そのものが文脈を持つ」ことは十分に理解していたつもりだし、またそれとは別に被写体という言葉や存在がはらむ文脈も漠然と感じていた。だが、募集に応じるモデルの大半が「被写体を自称する人々」なのはいささか予想外で、それが
ソーシャルメディアでモデルを募集することそのものとあいまった複雑で厄介な文脈が成立しているとは、まったく予想していなかった。

ともあれ、その文脈を把握したときにはすでにある程度の撮影を重ねており、また被写体という言葉や存在が持つ文脈についても、それはそれで興味深く感じるものがあった。そのため、ちょうどそのころ大流行していたHUMANS OF NEW YORKを模してインタビューを交えたポートレート撮影を始めたが、これがギャラリーで在廊中の作家とはまったく違って、自分の狙いはほとんど達成できなかった。
その理由はいくつかあると思うが、いまにして思うと自己の身体で表現するモデルと、作品で表現する作家との違いに対する理解が不十分だったのだろう。モデル経験を積んでいる人々や、アイドルや役者として活動するモデルはもちろん、そういった活動をしていない人々でも、被写体を自称して撮影に応募するからには、自己を表現したいという欲求が強くある。
これが作家であれば作品を媒介とした「語り」を、またHUMANS OF NEW YORKのような市井の人々であれば当人の生き様を媒介として「語り」を引き出せるだろう。だが、自らの身体や表情による「語り」を写真に表現しようとする人々に対しては、まったく異なる方法論が求められたと言えよう。

結局、インタビューを織り交ぜたポートレート撮影は早々に放棄し、それからしばらくは模索しながら応募モデルを撮影していた。やがて、ジェンダー論的な観点からの「グラビアやコスプレは女性を性的な存在として貶め、社会的な地位を低下させる表現」という攻撃が顕在化し、当事者から批判された体験を耳にするようにもなった。
個人的には、モデルやカメラマンを始めとする当事者の内心を作品表現と同一視するかのような浅い感想を、作品鑑賞や当事者への取材すら怠ったまま、学問や社会活動といった権威を振りかざして押し付けるジェンダー方面には、少なからぬ憤りすら感じる。だが、多くの当事者は沈黙を選び、埋没したまま嵐がすぎる日を信じ我慢している。
とはいえ、
攻撃されたグラビアやコスプレ的な方法論、あるいは当事者たちの世界を自分自身が是とする、あるいは好意を抱くわけではなく、むしろスーザン・ソンタグが指摘した撮影行為による被写体の獲得や攻撃に近い侵襲性といった側面に無頓着すぎるとさえ思わないわけではなく、いささか冷ややかに見ていたところすらある。
ただ、そういった否定的な感情があったにせよ、そもそもグラビアやコスプレにはあまり興味がないというのも正直なところで、多くはそれらを愛好するモデルたちを撮影しながら、同時に非常に屈折した思いも抱いていた。
いま振り返ると、募集をやめる潮時だったのかもしれないが、その時の自分は「ありがちな笑顔写真を排すれば、多少なりとも差別化ができるのではないか?」と、かなり安直にタイトルを決め、告知を改めたのだった。

手前勝手と言われればそのとおりなのだが、ぐだぐだな自分自身へのいらだちや思いもこめつつ、スペイン語で「怒りの日」を意味するEl día de la iraと企画を名付けていまに至る。
しかし、まったく予想もしない成り行きで伝染病の世界的流行に見舞われ、現段階では屋外の撮影すらままならない。もちろん、感染予防に十分な対策を講じても、この状況では「撮影することそのものがひとつの主張となり、文脈を帯びる」のだ。
伝染病が流行する世界でEl día de la iraと題するポートレート撮影企画をすすめることの意味、その文脈を引き受けつつ、自分はなおも続けようと思っている。

スペイン語でEl día de la iraはそこそこ使われる言葉で、楽曲や作品、映画のタイトルにもいくつか使われている。それらの中で自分が好きで、刺激を受けたのは以下のふたつだ。
それらを紹介し、結語に変えたい。

Ismael Serrano – El Dia de la Ira (Audio) @YouTube
スペインのミュージシャン「イスマエル・セラノ」の歌。
アラブの春めいた、大衆の街頭行動による官僚的な統治の打破を歌った詞だが、現在の状況ではいささか皮肉めいてしまう。

怒りの荒野 (1967) 原題:I GIORNI DELL’IRA/DAYS OF WRATH 予告編
マカロニ・ウエスタンの名作で、ジュリアーノ・ジェンマとリー・バン・クリーフというジャンルの大スターが共演している。原題はイタリア語の「怒りの日」で、スペイン語ではEl día de la iraと直訳された。ジェンマ演じる主人公の成長と復讐が、作品の中心となっている。

作品評論コラム
『怒りの荒野』
ヤサ男、ジュリアーノ・ジェンマの大爆発 – 花の絵

マヌエル・ファン・ダイク写真展「NODE」

新宿のサードディストリクトギャラリーでマヌエル・ファン・ダイクさんの写真展「NODE」が開かれたので、鑑賞してきました。

マヌエル・ファン・ダイクさんは日本在住のフォトグラファーで、サードディストリクトギャラリーの運営メンバーとしても精力的に活動されています。これまでにもストリートフォトなどの写真展をなんども開いており、この展示はサードディストリクトギャラリーで10回目の個展となるそうです。

展示されていたのは、モノクロのストリートフォト作品が28点でした。

ストリートフォト作品にも、いくつか手法や撮り方があります。展示されていた作品はピントの位置や意図がはっきりしていて、作画としての読みを楽しめるように感じました。しかし、いくつかの作品を繰り返し観ているあいだに、だんだんその読みがあやふやに、曖昧に溶け、不確かな世界へ崩れ落ちていくような、そんな感覚に襲われはじめたような気もします。

作家のステートメントも作品と相互に響き合い、展示空間そのものを引き締めるような存在感を放っていました。

会期は3月22日まで。とてもおすすめの展示なので、ぜひ会場へ足を運んでください。

ソール・ライター写真展”Saul Leiter – Lanesville, 1958″と「永遠のソール・ライター」展

アメリカの写真家で画家でもあるソール・ライターの作品展が渋谷と銀座で開催されたので、鑑賞してきました。展示内容などについては、以下のリンクを参照してください。特に「永遠のソール・ライター」解説ページは作家の略歴や評価が要領よくまとめられていて、さらに作家自身の言葉やキュレーターのコラムなど掲載されているので、とてもおすすめです。

ソール・ライター写真展”Saul Leiter – Lanesville, 1958″

永遠のソール・ライター

肝心の展示ですが、ライカギャラリー東京ではカラー撮影されたヌードを展示しており、渋谷Bunkamuraでは小サイズプリントやコンタクト(ネガを印画紙に並べてプリントしたもので、どのカットを引き伸ばすか検討するために作成しました。デジタルデータでいうプレビューやサムネイルのような位置づけです)、ドローイングなども展示し、総合的に作家を理解させようとしていました。
ライカギャラリー東京はライカ銀座店に併設されたショップギャラリーで、展示空間そのものはこじんまりとしています。ただ、高級ブランドショップがひしめく銀座六丁目のロケーションや、ライカ銀座店の落ち着いた雰囲気をたっぷり味わいながら2階へ上り、プリントラボやサービスカウンタを横目にたどり着くので、作品と向き合う前から鑑賞体験は始まっているように感じました。
作品については、どちらも「ソール・ライター風」と呼ばれる縦位置のやや甘い描写、そして印象的な色彩をワンポイント配置する構成の作品が中心で、夢見がちな雰囲気を感じさせます。ライカギャラリー東京では、そのような縦位置作品のみを展示していましたが、先述のようにBunkamuraでは小サイズプリントやコンタクトも展示していたほか、モノクロのポートレートやヌード、セルフポートレート、もちろん横位置作品も展示していました。

この「ソール・ライター風」と呼ばれる縦位置のやや甘い描写については、望遠レンズによる圧縮効果も指摘されています。具体的には、以下の7 Lessons Saul Leiterで解説されているようなものです。ただ、最後にリンクを張っているソール・ライター財団の動画でも強調されているように、ライカでのストリートフォトというイメージが流布しているため、望遠レンズについては違和感が残っていました。
詳細説明は避けますが、ライカなどの距離系連動型カメラでは望遠レンズが使いにくく、基本的に135mmが限界とされています。しかし、ソール・ライターはそれ以上の150mmレンズを使っていたと明言しているため、好事家の間ではカメラやレンズの推理が盛り上がったりもしました。

7 Lessons Saul Leiter Has Taught Me About Street Photography

7 Lessons Saul Leiter Has Taught Me About Street Photography

とはいえ、以下の記事でも紹介されているように、ソール・ライターはデジカメも含めた数多くの(20台以上もの)カメラを保有、使用しており、その中には一眼レフも含まれています。

1-ソール・ライターを探しに ニューヨーク写真旅

1.ソール・ライターを探しに ニューヨーク写真旅

実際、ソール・ライター財団の動画では東独製の一眼レフHEXACON(コンタックスSのブランド違い)を構えたセルフポートレートも映されていますから、少なくとも1950年代には一眼レフも使っていたでしょう。レンズはキルフィットのキラー(KILAR 150mm/f3.5)やメイヤーオプティック・ゴルリッツのテレメゴール(TELEMEGOR 150mm/f5.5)など使用可能で、どちらも軟調描写でソール・ライターの作風と調和するように思います。

カメヲタ話はさておき、縦位置でカラーフィルムや望遠レンズを使った作品は、同時代のストリートフォトと一線を画す、どちらかといえばファッションフォトのような撮影姿勢といえます。そして、それらがもたらす作画効果によって、同時代のストリートフォトとは全く異なる、ソール・ライターの作品世界を構築したのはまちがいないでしょう。

いずれにしても、非常に興味深い展示なので、ぜひ会場へ足を運んでください。

中国製 40mm 外付け光学ファインダ OTW-40

eBayで中国製の格安ファインダを買ってみました。出品者の説明には画角40mmで視野率90%、EVFがないミラーレス機やコンデジに適しているということでしたが、画像からもあからさまな安っぽさが伝わる「プラスチッキー」な代物です。おまけにまとめ買いでさらに割引とか、どこかのテレビショッピングみたいなことも書いてます。いくら安くても、同じ光学ファインダを2個以上買う人はいないだろうと思いますが……。
とはいえ送料無料で2千円弱ですから、中古と比べても半額から3割程度というお手頃感ですから、まぁ安物買いのなんとやらでもポチッちゃいますわな。

というわけで、落札から待つこと1ヶ月ちょっと。届いたのが……。
これです!

パウチ袋に入った、まさに必要最低限のファインダでした。

プラスチッキーな割に大層な説明書がついていたのは良心的と思いますが、もちろん中国語なので雰囲気程度しかわかりません。

フレームレスの素通しで、もちろん視野も雰囲気程度です。とはいえ、それでもお値段以上の意味はあり、構図が決めやすくなるのは間違いないです。それに、小さくてじゃまにならないのはかなりのメリットと言えましょう。バルナックライカにつけると、なんとなく標準型(ハンザ・キヤノン)のポップアップファインダめいた可愛らしさもあります。
ただし、バルナックライカだと取り付けがかなり渋く、しかも最後まで押し込めないので、後端がわずかに出てしまいます。これはアクセサリシューの前端中央部に突起があるためで、脚と干渉してしまうのです。ほとんどのアクセサリは脚の中央に溝や凹みがあるので問題にならないのですが、最近のデジカメにはないため省略したのでしょう。
ただ、後端が出ると言っても1から2mm程度なので、撮影に支障はありません。

とりあえず、気軽に使える可愛いファインダです。
ネットショップなどで安く売っていたら、ひとつ押さえておくのも悪くないかもしれません。

ライカRマウント マイクロフォーサーズ マウントアダプタ(中国製)

中国製のライカRマウント(ライカフレックスマウント)レンズアダプタマイクロフォーサーズボディ用を購入しました。

アダプタそのものを説明する前に、まずライカRマウント(ライカフレックスマウント)についてごく簡単に説明します。ライカの銀塩一眼レフカメラは(ミラーレスカメラやレンジファインダーカメラは一眼レフカメラと異なります)、ライカR(ライカフレックス)を採用しています。このマウントはライカフレックス用に開発され多少の改良を経て、ライカRシステムへ引き継がれました。ライカRシステムでも大きな変更が加わった結果、物理的に装着不能な組み合わせも存在しますが、それでも「多くの互換性がある」ため、いちおうひとつのマウントとされています。

詳しくはこちらのサイトをご覧ください。かなり複雑な有様であることが、よくご理解いただけると思います。

ライカRレンズの攻略方法

さて、このアダプタにおけるライカRマウントとは、いったいどの時期のどのようなマウントなのかという問題ですが、それはライカフレックスが採用していた最初期のマウントから連動カムを取り除いたようなものでした。つまり、マウントにカメラボディとの物理的、電気的な情報交換部はありません。
要するに、このアダプタは単なる金属のリングで、可動部もレンズマウントのストッパがあるだけです。また、ライカフレックスには装着できないRおよびROMタイプレンズについては、確認できませんでした(おそらく装着不能と思います)。

このように、仕組みとしてはシンプルなので、製品の質を左右するのは剛性や可動部の滑らかさ、加工精度となります。その点、このアダプタは中国製らしいつくりで、ボディとの着脱はがっちりしていますが、レンズ側には多少のカタツキが感じられました。
ただ、他社のもっと高価で精度も高そうなアダプターでも多少のカタツキが感じられたので、もしかしたらマウントの構造的な問題か、あるいはレンズ種別との相性問題かもしれません。
マイクロフォーサーズ規格ですと、素子サイズの関係からレンズの実効焦点距離が2倍となってしまうため、銀塩時代やフルサイズセンサー用のレンズは使いにくく感じるところがあるかもしれません。しかし、考えようによっては標準から中望遠域のレンズが軽量小型の望遠レンズとして使えるので、機材をコンパクトに収められるかもしれません。しかも、レンズの開放値は変わらないので、手軽に大口径望遠レンズを楽しめるとも言えます。

ハンドメイドカメラケース バルナックライカ用

ライカ関連の素敵な革ケースをヤフオクで出品しておられるleica_sammlerjpさんから、バルナックライカ(DII)用の黒革ケースを購入しました。

ボディに装着したところ、ほとんど一体化したのではないかと思えるほどぴったりで、ちょっとやそっとでは滑り落ちそうにありません。

いちおう、三脚穴に留めるネジも付属していて、しかもネジが飛び出さない(頭がケースに収まる)のですが、フィルム交換の際などわずらわしくなるので、外してしまいました。

嬉しいことに、ケースの穴を塞ぐ蓋も付属しています。また、蓋はぴったり収まるので、落ちる心配はほとんどありません。そのため、とめねじを外してスタイリッシュに使うこともできます。

背面はこんな感じに、スッキリしています。使い込むといい感じの艶が出そうですね。

注文の際には裏地やステッチ(縫い糸)の色、ストラップの長さや留め方、肩当ての大きさと有無など、細かく選べるのも嬉しいところです。

ケースのおかげで釣り金具のないDIIが持ち歩きやすくなり、しかも非常にかっこよくてスタイリッシュな雰囲気をおびるようになりました。手触りも良く、撮影のテンションまで上がります。
画像の個体はI型に距離計連動改造を施したもので、製造から90年ほど経っていますが、ケースのおかげで楽しく使えています。
みなさんもおひとついかがでしょう?

ベガ Vega-7 C-mount Вега-7Э 20mm f2.0 Cマウント

NikonV1_0380
NikonV1_0360
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素子サイズが1インチで16ミリ映画用レンズの撮影に適しているニコン1に、マウントアダプタを介してソビエトのCマウントシネレンズ、ベガ(20mm/f2.0)を装着、撮影しました。

このベガ(Vega-7/Вега-7Э)にはCマウントとは別に、キエフ16U(Kiev-16U/Киев-16У)カメラ用にスピゴットマウントとなった(Vega-7/Вега-7)が存在しています。光学系は同一ですが、鏡胴は全く異なります。
スピゴットマウントバージョンはかなり薄く、またCマウントバージョンのフィルター径が35.5mmなのに対して、スピゴットマウントバージョンは52mmとかなり太く、外観からの識別は容易です。またCマウントバージョンは、名称の末尾にЭが付与されていますが、ローマンアルファベットには相当する文字がないため、しばしばベガ73と表記されています。

またソビエトレンズの例にもれず、このベガもコピーの噂があり、具体的にはツァイスのテヴィドン(Tevidon)やチェコのメオプタ社(Meopta)が開発したオペナー(Openar)がベースになっているとされています。いちおう、メオプタのオペナーは20mm/f1.8でスペックが近く、フードが組み込まれた外観は似ていますが、画像のボケ味や色味など描写傾向はあまり似ていません。ツァイスのテヴィドンはスペックも外観も異なっており、画像もあまり似ていません。興味深いことに、テヴィドンとオペナーはボケ味や色味も近いようで、このふたつは似た傾向があるように感じます。
いずれにせよ、レンズの群構成や開発経緯を確認しないと、根拠のない噂としか言いようがないですね。

ソ連時代のレンズには驚くほど大量に生産されたものがいくつかありますけど、このベガもそのひとつのようです。しかも、ソ連解体後のデジタル化に伴って16ミリシネカメラが大量に放出されたため、数年前までは呆れるような価格で投げ売りされていました。その傾向はマイクロフォーサーズカメラなどでのCマウント再評価が始まってもさほど変わらなかったのですが、流石に在庫が底をついたのか、この数年は中国製のCマウントレンズより多少高値で取引されているようです。

さて、本題のベガ(20mm/f2.0)ですが、このレンズは以下のような4群5枚構成とのことです。

構成図

絞り羽根は6枚ですが、やや変わった形をしています。絞ると星型ボケのインダスター61L/3-MS(Индустар-61 Л/З-МС)とにたような形となりますが、星型ボケは確認できませんでした。
鏡胴の前半分はビルトインフードになっていて、その外側は絞り環になっています。絞りはクリックレスで、最小値は16です。このレンズはフィルター径が35.5ミリとやや特殊なので、日本だとレンズキャップやフィルターの入手に苦労するかもしれません。ただ、ソビエトレンズおなじみのケースやフィルタと言ったアクセサリがセットで売られていることも多いので、買うときに注意すればそれほど困らないのではないかと思います。
とは言え、先述のようにビルトインフードがあるため、たいていの外付けフードはけられます。それどころか、フィルターも枠が厚いものはけられる可能性があるため、活用する機会は少ないでしょう。
最短撮影距離は40cmなので長くはありませんが、短いと誇るほどでもないでしょう。

このレンズは16ミリシネ用なので、マイクロフォーサーズでもイメージサークルは不足します。下の画像をご覧いただければ一目瞭然ですが、かなりはっきりと丸くけられています。

PenF_255
PenF_243
もちろん1インチ素子のニコン1なら全く問題はありませんが、生産が終わっている上に電子チップ付アダプタを調達しないとフルマニュアル操作になってISO可変も効かなくなるので、なかなか悩ましいところです。トップには1インチ素子のニコン1V1で撮影した画像を掲載したので、参考にしてください。

描写は懐かしいというかフィルム的というか、特にニコン1ではぼってりとリッチな雰囲気です。また、点光源や逆光時のゴーストやフレアは凄まじく、半逆光でも多少フレアがかったようなにじみが見受けられます。

ボケはぐるぐる傾向があり、背景を整理しないとうるさく感じますが、この辺は味わいと取る人もいるでしょう。

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多少は価格も上がってきたと言え、まだまだ気軽に見つかります。ソビエトのCマウントレンズとしては最安値に近く、独特の世界を手軽に楽しめる1本だと思います。

 

 

三丁目の写真展《巣鴨三丁目編》

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Gallery Conceal渋谷にて開催中の三丁目の写真展《巣鴨三丁目編》を鑑賞しました。展示解説には「数ある三丁目の中からひとつの街を撮影地として、自由に写真表現を行うグループ写真展です」とあるが、率直なところなにがどう三丁目なのか、いまひとつ伝わらないものがありました。
また、展示全体として巣鴨という土地が持つ強烈なイメージを持て余しているようなところもあり、間合いのとり方は難しいところがあるとはいえ、もう少し積極的でも悪くはなかったのではないかという感を覚えなかったといえば、それは嘘になってしまいます。

ただ、ランニングシャツに半パン、虫取り網という出で立ちの男性を撮影した作品は、和紙プリントの甘さとキャラクタとのミスマッチや、巣鴨という場所が持つイメージをうまく取り込もうとした積極性が好ましく、なかなかみごたえがありました。また、壁面の大判プリントとは別にフォトブックを用意し、相補的な意味をもたせたことにも感心させられました。あえて難点を言えば、大判プリントにややノイジーな粒子感やプリントラインが残存していたことで、そのへんを解決すればより主題が明確になったと思います。

その他にもGallery Conceal渋谷では興味深い展示が開かれているので、お時間のある方はぜひ足を運んでください。
会期は今週末までです。

薈田純一写真展:新・小説のふるさと

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かねてより「書棚」をテーマに作品制作されていた薈田純一氏が、今度は小説を題材とした写真連作に挑戦されていました。月刊誌『中央公論』に不定期連載されていたそのシリーズは完結していますが、リコーイメージングスクエア新宿にて「新・小説のふるさと」と題する作品展が開かれることとなったので、秋雨がおさまった頃合いを見計らってでかけました。

展示内容などは、リンク先のギャラリー紹介ページをご覧いただくとして、自分が興味深く感じたのは題材となる小説と写真作品との距離感であり、また会場のインスタレーションでした。題材との距離感については、ギャラリー紹介ページの作家コメントでもしっかり言及されていますが、なるほど「翻訳」とは言い得て妙だなと感心させられました。

さて、小説を写真へ「翻訳」した作品の展示ですが、ほぼ文庫本サイズにプリントされた可愛らしい写真が、本箱を思わせるフレームに収められた、なんとも詩的なインスタレーションです。主題となった小説とそのあらすじの後に作品が連なっていますが、特に連続性があるというものではなく、それぞれが独立していながらも緩やかにつながっているような写真です。
そして、当然ながらすべての作品は「主題となった小説を深く読み込み、その上で背景となった風景や品々から触発された」もので、読者ならくすぐられる物もありそうです。ただ、そのくすぐられる感じは決して文芸マニアの内輪ノリめいた閉ざされたものではなく、小説と深いところでしっかり結びついていながらも、作品として開かれた、未読の鑑賞者であっても楽しみ、小説を想像する楽しみをもたらす力を備えています。
それは、写真家自身が小説を愛し、また作家への敬意が反映されているからかもしれません。

とてもおすすめの展示です。ぜひ、会場まで足を運んでください。