高村啓子写真展「浮遊する湿度」と星玄人写真展「横浜」

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秋の連休に新宿方面のギャラリーをはしごしました。

まずは新宿三丁目のサードディストリクトギャラリーで星玄人さんの写真展「横浜」を鑑賞します。星さんのストリートフォトは方法論がしっかりしてて、鑑賞する自分も安心しながら作品の世界、盛り場の夜へと没入できました。すべてモノクロで、夜の盛り場を撮影した作品ですが、地名を冠したタイトルにもかかわらず、強い無名性を感じさせるところは本当に素晴らしい。
また、今回の展示はけっこう以前に撮影した作品も含まれているようで、個々の写真にはそれなりに時間の隔たりもあるのでしょうが、それを感じさせない統一感は流石でした。

次に新宿御苑前のプレイスMで高村啓子さんの「浮遊する湿度」を鑑賞しましたが、こちらもモノクロの銀塩写真を展示していました。繁茂する植物を撮影した作品で、ステートメントにもそれとなく言及されているように、生命を感じさせる作品です。ただ、自分が作品から感じたのは生命のもつ力、それも時として人間やその暮らしを飲み込み、覆い尽くす油断のならなさ、ややもすれば敵対的ですらある暴力性、決してわかり合うことのできない異質な存在としての植物でした。

いずれもおすすめの展示です。どちらも会期は27日まで、ぜひ会場へ足を運んでください。

尾仲浩二写真展「すこし色あせた旅」と前田昌樹写真展「打敷」そしてATSUSHI YOSHIE写真展「TAIWAN 2011-2019」

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思いがけずスキマ時間ができたので、すごく久しぶりに写真ギャラリーをはしごしました。

最初に鑑賞したのはサードディストリクトギャラリーの前田昌樹写真展「打敷」で、都市の近郊と里山が重なり合うような「周辺域」を丁寧に、かつ知的に撮影した作品でした。幸いにも作家氏が在廊しておられたので、自分の拙い感想もお伝えさせていただきましたが、即興性や叙情性と理知的な構図、描写とのバランスに腐心しておられ、また展示環境を考慮したプリントの作成にもかなり気を配っておられるように感じられました。

次に蒼穹舎ギャラリーでATSUSHI YOSHIE写真展「TAIWAN 2011-2019」を鑑賞させていただきましたが、こちらも知的に覚めた空気感と隠し味程度に抑えた叙情性との配分が好ましく、すっかり堪能させていただきました。

そんな心地よさを抱えてプレイスMへ向かったのですが、まさか尾仲浩二氏の展示とは思っていなかったばかりか、ご本人も在廊しておられたので、すっかり舞い上がってしまいました。
尾仲氏については、自分があれこれ説明するのもおこがましいので、写真集専門店Shelf作家解説を参照していただければと思いますが、日本を代表する現代写真家のひとりです。
開催されていたのは尾仲浩二写真展「すこし色あせた旅」で、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行によって撮影旅行ができなくなり、その時間を利用してプリントした過去のネガカラー作品を展示したとのことでした。また、同名の写真集も出版され、会場では即売もされていました。
作品についてですが、展示作品の撮影時期は自分にとって写真雑誌やワークショップを通じて尾仲氏の作品と親しんでいた時期と重なるため、どうしても郷愁とか懐かしさが先に立ってしまいがちですが、それは同時に尾仲作品の抒情性や郷愁は見せかけであり、それに足元をすくわれると危ういことを教えられた日々でもありました。
それだけに、自分の経験や記憶がもたらす郷愁、懐かしさが、作品が示す思考の深さ、知的な態度との差分をどうしても意識してしまい、それが微妙な可笑しみともなって、なんとも不思議な鑑賞経験となりました。

前田昌樹写真展「打敷」とATSUSHI YOSHIE写真展「TAIWAN 2011-2019」は明日までですが、尾仲浩二写真展「すこし色あせた旅」は16日まで開催しています。
ぜひ、会場まで足を運んでください。

森山大道の東京 ongoing

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風は強かったものの、思ったより早く雨がやんだので、週末は思い切って写真美術館へでかけました。目的は森山大道氏の国内初となる個展「森山大道の東京 ongoing」です。展示内容などについては、デジカメWatchのレポート「森山大道の東京 ongoing」・「写真とファッション 90年代以降の関係性を探る」展が簡潔にして的確にまとめているので、そちらを参照してください。

個人的に、森山氏は国内外の若手写真作家や愛好者から半ば神格化されていると言ってもよいほど熱狂的な支持を受けつつ、同時に自分と同世代やそれ以上の年齢層からは時として冷ややかに、あるいは意識して言及を避けるかのように扱われる、極端な両面性を帯びた人物でした。
特に新宿界隈でストリートフォトを愛好するなら、決して避けては通れない人物であり、またイベントなどはもちろんギャラリーなどで対面することも稀ではありません。そのため、日本写真史に名を刻む人物でありながらも、その影は日常の中に写っては消えてゆく、どこか身近な存在でもありました。

さておき、そんな思いをいだきつつ会場へ向かったのですが、まず最初に観たのは氏の代表作である「三沢の犬」や「Lips」よりセレクトされた作品でした。いずれも壁面いっぱいにまで引き伸ばされており、率直なところ「こんなに大きな作品だったっけ?」との違和感や、またあまりにもオサレなインスタレーションに「あぁあ、森山大道もすっかりアート作家になっちゃった」といった、あたかも老大家が過去の代表作にあぐらをかいているかのような、なんともしょんぼりした気持ちに襲われたのです。

ところが、続く展示室へ入った瞬間、そんな気持ちは吹き飛ばされました。

柔軟な好奇心のおもむくまま、都市を軽やかに撮り続けてきたまなざしの確かさ、シャッタを切る身体のキレが明らかで、また個々の作品が発する印象の積み重ねが全体としての時代性、批評性をもたらす構成の見事さまで、なにもかもが神話的存在としての森山大道そのままだったのです。

まぁ、最初の展示室で失望の奥底から下卑た期待感を、それは老いて時代から取り残されしもののあがきへのそれを覚えなかったかといえば、それはまったくの嘘となってしまいますが、それでも大半が近作であるキレッキレのストリートフォトを心ゆくまで堪能できたのですから、それにまさるものはありません。

ストリートフォトに関心を持つ人はもちろん、そうでない人にも強くおすすめしたい展示です。
会期は9月22日までですが、予断を許さない情勢でもあり、できるだけ早い機会に会場へ足を運ぶようおすすめします。

El día de la ira と題する写真企画雑感

自分は数年前からソーシャルメディアで募集したモデルのポートレート撮影を続けている。すこし前からは「El día de la ira」と題して募集から撮影までも含めた写真企画として構成し始めたが、いまのところまとめて発表する計画も媒体もない。

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撮影をはじめた2010年代なかばの時点で、すでに「ソーシャルメディアで募集したモデルのポートレート」は複雑で厄介な文脈をはらんでいた。
なぜ、それが複雑で厄介なのかは、大きくわけてモデルたちを取り巻くポートレート撮影や写真界隈の文脈と、その外側、つまり社会の主流を構成する文化や言論人界隈のそれというふたつの側面が、相互にゆるく関連していたためだ。

まず、ポートレート撮影や写真界隈の文脈だが、ソーシャルメディア経由で募集に応じるモデルのほとんどすべてはプロダクションに所属しないフリーランスで、さらにその多くは「被写体」と自称する、あるいは他称される人々だった。
彼らが被写体と自称し、または他称される理由のひとつは、プロダクションに所属する専業プロ、あるいはセミプロとの差別化、それも下位存在としてのそれだった。
この、強い表現を用いるなら差別的ですらある「被写体」という言葉は、少なからず撮影するカメラマンや作品を掲載する媒体側の意識を反映したところがあり、すこし前まで職業カメラマンや大手媒体から使い捨て扱いされ、ひどい場合は報酬未払いやセクハラなどの問題もあった(ただし、報酬未払いやセクハラという問題は被写体のみに限らず、プロダクション所属のモデルもしばしば直面している)。
ただ、彼らが「ファッションあるいはグラビアモデルとして体系的な教育、訓練を受けていない」としても、レイヤーや地下アイドルを兼ねていることが非常に多く、また活動の一環として音楽やダンス、演劇、歌唱、発声などのトレーニングを積んでいることは少なくない。さらに水着やコスプレもふくめ撮影時の衣装は自弁が基本で、独自にポージングなどを研究しているモデルも非常に多く、プロダクション所属のセミプロはもちろん、専業プロとも技術面の差はそこまで大きいとは言えないところもある

また、モデル自身によるネットでの個人発信が社会的な力を持つようになり、特に印刷媒体を始めとする旧来型の媒体が相対的に影響力を弱めていったこと、さらにデジカメと現像編集アプリの普及でアマチュアカメラマンの水準が上昇したことなどから、ソーシャルメディア経由で募集に応じるモデルの水準や意識が向上し、被写体という言葉の持つ否定的な意味は徐々に薄れていったと思える。
加えて、ソーシャルメディア経由で人気を集めたモデルが印刷媒体やカメラショーなどで活躍するようになり、プロダクションも撮影イベントなどではソーシャルメディアでアマチュアカメラマンを募集するなど、被写体とモデルの境界が曖昧になり、言葉そのものの意味も変化していった。

次に、社会の主流を構成する文化や言論人界隈の文脈だが、これはポートレート撮影や写真界隈における被写体の位置づけが向上するに従って発生したように考えている。それは、ざっくり言ってしまうと「グラビアやコスプレは女性を性的な存在として貶め、社会的な地位を低下させる表現」として攻撃する文脈である。
いわゆる被写体の最大多数は女性だったが、トランスも含めた異性装者も少なくはなく、それは男性モデルよりも多いのではないかとさえ思えるほどだった。とはいえ、異性装者のなかでも男装女性やトランス男性(いわゆるFtM)は限られていたため、自分の作品もふくめ大半が「女性の姿を撮影したもの」となる。
そして、作品で表現する内容は「既存のジェンダー観を追認、強化するもの」として、強い批判の的となった。
また、ジェンダー的な観点からの批判と並行して、先に触れたような
職業カメラマンや大手媒体から使い捨て扱いや、報酬未払い、セクハラなどの問題が少なくないことの背景に、当事者の女性差別的な意識があるとの指摘もなされ、表現とジャンルの両面が否定的に受け止められたのである。
ややこしいことに、それらとほぼ同時期にフェミニストによるトランス女性や異性装者への攻撃も始まり、モデルにはトランスや異性装者が少なからぬふくまれていたため、ポートレート撮影をめぐる屈折をより複雑に、わかりにくくしているのであろうとも思う。

ただ、ソーシャルメディア経由で募集に応じるモデルのほとんどすべては、いわゆる専業モデルがまま主張する、ロックミュージシャンめいたアティテュードとは距離を保っている、あるいは方向性が異なっていて、社会へ直截かつ無遠慮な意見表明することを煙たがっているようなフシすらある。
また、おうおうにして彼らの自尊心であり自己主張の源はアニメやマンガ、ゲームだったり、コミック雑誌も含めた雑誌のグラビア、アイドルタレントだが、同時にそれらが社会からさほど評価されていないこと、特にファッションより格下扱いされるという現実も、はっきりと認識している。
加えて、アニメやマンガ、ゲーム、雑誌のグラビア、アイドルタレントなどは、しばしば社会の主流や権威ある学者から軽んじられ、ひどく攻撃されることすら少なくはない。そのため、ジェンダー的な観点からの批判によって写真展が中止に追い込まれたり、コミック雑誌のグラビアが性差別的と攻撃された際にも、仕方ないこととして受け流すような態度が見受けられた。
もちろん、そのような攻撃はファンでもある彼らを傷つけ、また屈折の要因でもあるが、それを飲み込んでしまう埋没志向が存在している。
これはカメラマンや媒体からの使い捨て、セクハラや報酬未払いなどの問題指摘に対する反応もそうで、少なくとも問題を声高に指摘した活動家や学者への直接的な言及や、まして対話といったものはごく限られていた。むしろ、そういった活動家や学者を胡散臭く感じて遠ざけ、当事者同士の互助や自治を強化する傾向がある。

ともあれ、このような屈折を抱えたモデルを撮影することは、それ自体がひとつの文脈を持ってしまうし、それは避けようがないことと思う。

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自分がソーシャルメディアで募集したモデルのポートレート撮影をはじめた時点では、正直なところ「それがはらむ複雑で厄介な文脈」を理解していなかった。
ただ、その以前にギャラリーで展示する作家の在廊中をアポ無しで作品とともに撮影し、組写真として展示したことはある。その際に「モデルの選択と撮影という行為そのものが文脈を持つ」ことは十分に理解していたつもりだし、またそれとは別に被写体という言葉や存在がはらむ文脈も漠然と感じていた。だが、募集に応じるモデルの大半が「被写体を自称する人々」なのはいささか予想外で、それが
ソーシャルメディアでモデルを募集することそのものとあいまった複雑で厄介な文脈が成立しているとは、まったく予想していなかった。

ともあれ、その文脈を把握したときにはすでにある程度の撮影を重ねており、また被写体という言葉や存在が持つ文脈についても、それはそれで興味深く感じるものがあった。そのため、ちょうどそのころ大流行していたHUMANS OF NEW YORKを模してインタビューを交えたポートレート撮影を始めたが、これがギャラリーで在廊中の作家とはまったく違って、自分の狙いはほとんど達成できなかった。
その理由はいくつかあると思うが、いまにして思うと自己の身体で表現するモデルと、作品で表現する作家との違いに対する理解が不十分だったのだろう。モデル経験を積んでいる人々や、アイドルや役者として活動するモデルはもちろん、そういった活動をしていない人々でも、被写体を自称して撮影に応募するからには、自己を表現したいという欲求が強くある。
これが作家であれば作品を媒介とした「語り」を、またHUMANS OF NEW YORKのような市井の人々であれば当人の生き様を媒介として「語り」を引き出せるだろう。だが、自らの身体や表情による「語り」を写真に表現しようとする人々に対しては、まったく異なる方法論が求められたと言えよう。

結局、インタビューを織り交ぜたポートレート撮影は早々に放棄し、それからしばらくは模索しながら応募モデルを撮影していた。やがて、ジェンダー論的な観点からの「グラビアやコスプレは女性を性的な存在として貶め、社会的な地位を低下させる表現」という攻撃が顕在化し、当事者から批判された体験を耳にするようにもなった。
個人的には、モデルやカメラマンを始めとする当事者の内心を作品表現と同一視するかのような浅い感想を、作品鑑賞や当事者への取材すら怠ったまま、学問や社会活動といった権威を振りかざして押し付けるジェンダー方面には、少なからぬ憤りすら感じる。だが、多くの当事者は沈黙を選び、埋没したまま嵐がすぎる日を信じ我慢している。
とはいえ、
攻撃されたグラビアやコスプレ的な方法論、あるいは当事者たちの世界を自分自身が是とする、あるいは好意を抱くわけではなく、むしろスーザン・ソンタグが指摘した撮影行為による被写体の獲得や攻撃に近い侵襲性といった側面に無頓着すぎるとさえ思わないわけではなく、いささか冷ややかに見ていたところすらある。
ただ、そういった否定的な感情があったにせよ、そもそもグラビアやコスプレにはあまり興味がないというのも正直なところで、多くはそれらを愛好するモデルたちを撮影しながら、同時に非常に屈折した思いも抱いていた。
いま振り返ると、募集をやめる潮時だったのかもしれないが、その時の自分は「ありがちな笑顔写真を排すれば、多少なりとも差別化ができるのではないか?」と、かなり安直にタイトルを決め、告知を改めたのだった。

手前勝手と言われればそのとおりなのだが、ぐだぐだな自分自身へのいらだちや思いもこめつつ、スペイン語で「怒りの日」を意味するEl día de la iraと企画を名付けていまに至る。
しかし、まったく予想もしない成り行きで伝染病の世界的流行に見舞われ、現段階では屋外の撮影すらままならない。もちろん、感染予防に十分な対策を講じても、この状況では「撮影することそのものがひとつの主張となり、文脈を帯びる」のだ。
伝染病が流行する世界でEl día de la iraと題するポートレート撮影企画をすすめることの意味、その文脈を引き受けつつ、自分はなおも続けようと思っている。

スペイン語でEl día de la iraはそこそこ使われる言葉で、楽曲や作品、映画のタイトルにもいくつか使われている。それらの中で自分が好きで、刺激を受けたのは以下のふたつだ。
それらを紹介し、結語に変えたい。

Ismael Serrano – El Dia de la Ira (Audio) @YouTube
スペインのミュージシャン「イスマエル・セラノ」の歌。
アラブの春めいた、大衆の街頭行動による官僚的な統治の打破を歌った詞だが、現在の状況ではいささか皮肉めいてしまう。

怒りの荒野 (1967) 原題:I GIORNI DELL’IRA/DAYS OF WRATH 予告編
マカロニ・ウエスタンの名作で、ジュリアーノ・ジェンマとリー・バン・クリーフというジャンルの大スターが共演している。原題はイタリア語の「怒りの日」で、スペイン語ではEl día de la iraと直訳された。ジェンマ演じる主人公の成長と復讐が、作品の中心となっている。

作品評論コラム
『怒りの荒野』
ヤサ男、ジュリアーノ・ジェンマの大爆発 – 花の絵

マヌエル・ファン・ダイク写真展「NODE」

新宿のサードディストリクトギャラリーでマヌエル・ファン・ダイクさんの写真展「NODE」が開かれたので、鑑賞してきました。

マヌエル・ファン・ダイクさんは日本在住のフォトグラファーで、サードディストリクトギャラリーの運営メンバーとしても精力的に活動されています。これまでにもストリートフォトなどの写真展をなんども開いており、この展示はサードディストリクトギャラリーで10回目の個展となるそうです。

展示されていたのは、モノクロのストリートフォト作品が28点でした。

ストリートフォト作品にも、いくつか手法や撮り方があります。展示されていた作品はピントの位置や意図がはっきりしていて、作画としての読みを楽しめるように感じました。しかし、いくつかの作品を繰り返し観ているあいだに、だんだんその読みがあやふやに、曖昧に溶け、不確かな世界へ崩れ落ちていくような、そんな感覚に襲われはじめたような気もします。

作家のステートメントも作品と相互に響き合い、展示空間そのものを引き締めるような存在感を放っていました。

会期は3月22日まで。とてもおすすめの展示なので、ぜひ会場へ足を運んでください。